こんんちは!keeです。私は昨年、念願の『サブ4』を達成したものの自分の限界をはるかに超える無理をしたせいで身体が悲鳴をあげ、前回のフルマラソンから3ヵ月が経とうとしている今もまだ、内くるぶしの痛みを感じずには走ることができません。
痛みなく走ることは以前からの目標でもあったため、かなり前に購入して本棚で態度XLサイズで場所取りをしていたこの本に答えを聴いてみようと思いました。
結論から言うとその答えは、この本の中に確かにありました。
『最良の走者は跡を残さず』
「老子道徳経」
『どうして私の足は痛むのか?』
そもそもの発端は、答えの見つからないこの素朴な疑問にあった。
アメリカにおけるスポーツ医学の大家に会いにいったのは、見えざるアイスピックが私の足の裏を貫くからだった。
『走ることがあなたにとって問題なのです』
ほかのスポーツだったら、私のような頻度でけがをすれば身体に欠陥があるとみなされるだろう。ところがランニングの場合は、これで当たりまえ。むしろ負傷しないランナーのほうが突然変異なのだ。
10人中8人が毎年けがをする。
太っていようが痩せていようが、俊足だろうが鈍足だろうが、マラソン王者だろうが週末ランナーだろうが関係ない。
誰もが等しく膝やむこうずね、ハムストリング、臀部、足首、あるいは踵を虐待している。
この大量殺戮を食い止める技術革新はまだ実現していない。いまではソールにベッドのような鋼のスプリングを埋めこんだランニングシューズや、マイクロチップでクッションを調節するアディダスを買うこともできるのに、負傷率はこの30年間に少しも下がっていない。
それどころか、どちらかと言えば上昇傾向にある。
走ることはさしずめ、飲酒運転のフィットネス版だ。しばらくは無事でいられるし、楽しくさえあるだろうが、角を曲がれば破滅が待っている。
私が求めているのは、シューズにはめ込む高価なプラスチックの塊でもなければ、月に一度の痛み止めの注射でもない。痛い思いをせずに走る方法だ。
走るのが大好きなわけではなかったが、走りたいのは確かだった。
その答えを知っている唯一の民族、その答えを実践するただひとつの民族は…
”ララムリ”
2003年の冬、出張先のメキシコでスペイン語の旅行誌をぱらぱらとめくりはじめたときのことだった。
ローブにサンダルという格好の男が瓦礫の山を駆け下りているのその民族がタラウマラ族。
別名『ララムリ』~走る民族~だ。
タラウマラ族のランナーの中には立てつづけにフルマラソンをほぼ12回、登った日が沈み、また昇るまでに走破したものたちもいると伝えられている。
タラウマラ族は電解質が豊富なスポーツドリンクを大量に飲んだりしない。練習の合間にプロテイン・バーで体力の回復に努めることもない。それどころかたんぱく質もほとんど口にしない。
レースの当日にいたるまで、トレーニングや調整はしない。ストレッチや準備運動もしない。ただ、ふらふらとスタートラインにつき、笑って冗談を言いあい…そしてつぎの48時間は鬼のように走りまくる。
”それでどうして身体を壊さない?”
私には不思議だった。統計値を別の欄に入力した事務的なミスではないだろうか。
本来なら、われわれ…最先端のランニングシューズと特注の矯正具を装備した者…が死傷者ゼロで、タラウマラ族…はるかに長い距離にわたって岩だらけの土地を、靴とは言いがたい靴(タイヤのゴムに紐を通したもの)を履いて走る者…こそ、故障が絶えないのではないのか?
”彼らの脚のほうが強靭なのは、生涯走りつづけてきたからだ”とも思ったが、そこでわが身を見舞った災難が頭に浮かんだ。”でも、だとすると、彼らのけがは減るのではなく、増えていなくてはならない。走りすぎることが脚によくないのなら、走ってばかりいるのは、よくないはずだ”
”裸足宣言”
シューズがさえぎるのは痛みであって、衝撃ではない!
痛みはわれわれに心地よい走りを教えてくれる!
裸足になったそのときから、きみの走り方は変わるはずだ。
ベアフット・ケン・ボブ
足の下にクッションがあると、ストライドが広がって脚が流れ、腰がねじれる。裸足で走りはじめたとたん、フォームは引き締まる。背筋はまっすぐに伸び、両脚は尻の真下からずれることはない。
『足がひどく敏感なのも不思議じゃない。これは自己補正装置なんだ。足をクッションつきのシューズで覆うのは、煙探知機の電源を切るようなものだ』
もしかするとランニングシューズは、人間の足を襲う史上最大の破壊勢力かもしれない。
『現在われわれを苦しめる足や膝のけがの多くは、じつは靴を履いて走ることに原因があります。靴はわれわれの足を弱くし、オーバープロネーションを招き、膝に問題を生じさせる。1972年にナイキが現代的なアスレチックシューズを発明するまで、人々はきわめて薄い底の靴を履いて走っていたが、彼らの足は強く、膝の負傷率ははるかに低かったのです。』
ここでナイキはとてつもなく大きな罪を負わされている。だが、何より驚くべき点は?
ナイキがそれを知っているということだ。
人は何千年もシューズなしですごしていた。シューズにいろいろと矯正機能を加えようとすれば、過剰に足の機能を補うことになると思う。直す必要のないものまで直すことになる。裸足になって足を鍛えれば、アキレス腱や膝、足底筋膜などに問題が生じるリスクは減るだろう。
痛ましい真実その1
最高のシューズは最悪である
最高級のシューズを履くランナーは安価なシューズのランナーに比べてけがをする確率が123%も大きい。
驚いたのは、故障経験者に共通する最大の変数がトレーニング場の表面や走るスピード、1週間に走る距離、モチベーションのいずれでもないことだった。それは体重でもなければ、それまでの故障歴でもない。
シューズの価格である。
95ドル以上のシューズを履いたランナーは、けがをする確率が40ドル未満のシューズのランナーの2倍だったのだ。
なんときつい冗談だろう。価格が2倍なら痛みも2倍とは…。
痛ましい真実その2
足はこき使われるのが好き
1988年、オレゴン大学の生体力学/スポーツ医学研究所長は、シューズがすり減ってクッション材が薄くなるとランナーの足はコントロールしやすくなると報告した。
どうして足のコントロール+ぺらぺらになった靴底=けがをしない脚になるのだろうか?
1986年ナイキ・スポーツ・リサーチラボ所長はアメリカバイオメカニクス学会の総会に参加した。
『被験者がやわらかいシューズを履いた場合と硬いシューズを履いた場合では…」
衝撃力になんのちがいもないことが判明した。しかも興味深いことに垂直反力における第2の、すなわち推進力のピーク値はやわらかいシューズのほうが高かったのである。
これはシューズのクッション材が多いほど、足が保護されないことを意味する。
足の下にふわふわしたものがあるのを感じると、脚と足は本能的に強く踏ん張ってしまう。
わかったことは、ことランニングシューズに関しては、輝くものすべてが黄金とはかぎらないということだ。
最期の痛ましい真実
『人間は靴なしで走るようにできている』
『衰えた足の筋肉組織こそ、けがを招く最大の問題だが、過去25年、私たちは足をひどく衰えさせてもかまわずにいた』
『プロネーションはすっかり悪い言葉になってしまったが、本来、それは足の自然な動きにすぎない。足は内転するようにできている』
プロネーションの動きを見るには、シューズを脱いで家のまわりでも走ってみるといい。路面が固い場合、足はシューズを履いていたときの習慣をいったん忘れ、自動的に自己防衛モードに切り換わる。あなたは無意識のうちに足の外側で着地し、小指から親指にかけてそっと転がすようにして、足をフラットにするだろう。それがプロネーションだ…ショックを吸収するこのおだやかなひねりがあるから、土踏まずは縮まるのである。
足の中心となるのは土踏まずだ。重量を支えるためのデザインとして、これほど優れたものは歴史上見当たらない。
足のアーチをあらゆる面から強化するのは、26の骨、33の関節、12のゴムのような健、そして18の筋肉からなる伸張性の高い網であり、これはいずれも耐震構造のつり橋のように収縮する。
シューズを履くのは足にギプスをはめるようなものだ。ギプスをはめれば6週間で筋肉組織の40%から60%は萎縮するだろう。シューズが仕事をすれば、健は硬くなり、筋肉はしなびるというわけだ。
足は戦いを生きがいとし、プレッシャーのもとで強くなる。怠惰にすごさせたら、衰弱するだけだ。徹底的に使いこめば、虹のように見事な弧を描く。
走るために生まれた
『痛みや疲労から逃れようとするのではなく、しっかりと抱きしめることだ。疲労を手放してはならない。相手を良く知れば、怖くはなくなる』
人は年をとるから走るのをやめるのではない。走るのをやめるから年をとるのだ
私も疑問に思ったことがある。足は筋断裂で痛み、味わったことのない地獄の苦しみを感じながらもレースの最中に味わったことのない陶酔感を感じるのはなぜだろう、ようやくたどり着いたゴールで、また再び走ろうと思えるのはいったいなぜなのだろう、と。
もしかしたら私たちは忘れてしまっているだけなのかもしれない。
走ることは本来、人と競うためにあるのではない。
自分自身の限界を知り、そしてそれを越えるためにあるのだ。
マラソンとは、旅であり、そして人生である。
最後まで読んでいただきありがとうございました。