【これも修行のうち】”お守り”みたいなキーワード!この口ぐせですべてが変わる!!




毎日が、今よりもっと楽しく、心軽く、快適にすごせたらいいな…。今日の自分よりも、明日の自分が成長出来ていたらいいな…きっと、多くの人がそう感じていることでしょう。しかし現実は、そう思うようにはいかないものです。

そんな毎日の思うようにいかない出来事を『まあ、これも修行のうち』と気楽に受け流せるようになれたら…。

イヤなことがあっても、ツラいことに遭遇しても『これも修行のうち』と、何事も自分にとって今後につながるプラスの体験として受け止めることができたら…。

そのための『心の練習』”プチ修行”があったら、あなたはやってみたいと思いますか?

やってみたいと思ったあなたは一緒に行きましょう。

残りは、たった42.195㎞だけ!です。

こんにちは!keeです。今回紹介するのは、以前に紹介した『反応しない練習』の実践版、草薙龍瞬さんの『これも修行のうち。』です。これから『ムダに反応しない心』を作る方法を一緒に実践していきましょう。

『感覚』のプチ修行

疲れたときは『感覚に帰る』

人が最初の不快感を抜け出すために、別の反応に頼ろう(気を紛らわそう)としても、その効果には限界があります。

反応に疲れたときは、『感覚を意識する』ことが最大の秘訣です。

日頃の反応は、たいてい”感情”か”思考”です。

『不満を紛らわすために楽しさを』というのは”感情”で反応し続ける状態だし、

『ネットで遊んだり、テレビを見たり』というのは”思考”(妄想)で反応し続ける状態です。

いずれも、一見『気分転換』には見えますが、反応そのものは止まっていません。

この反応をいったんストップさせるには『感情にも思考にも、心を使わない(反応しない)』ことです。

その方法は『感覚に意識を向ける』しかありません。

流行りのサウナの様々な健康効果の中にも、深部体温が上昇すると脳血流が低下、脳が省エネモードになり、思考が停止、意識が思考から感覚に向かうことで脳を休めることができ、脳疲労を軽減する効果があると言われています。

サウナの至極『ととのう』という感覚!!←サウナの効果についてもっと知りたい方はこちら

プチ修行 シャワー禅

やり方はまず、『シャワー行』をやるぞ!と宣言、(シャワーの水を滝行に見立て)

栓をひねる!温水がほとばしる!目をつむる!全身湯水に打たれる!皮膚を叩くシャワーの”感覚”を目を閉じたまま見つめる!

ほぼ毎日やっているシャワーでさえ『ただぼんやりと』ではなく『たしかな方法』として活用すれば、溜まった疲れや不満、不安や迷い、アタマのモヤモヤや落ち込んだ気分でさえもきれいさっぱり洗い流せる『プチ修行』になり得るのです。

プチ修行 30秒座禅

仕事など作業を始める前に30秒ほど目を閉じて、腹部のふくらみ、ちぢみや、足の裏の感覚に意識を集中させます。30秒でも雑反応を洗い流すのに十分な時間ですが、足りない場合は長めにやってもかまいません。

目を開いたときには、感情も思考もなし。『目の前の作業』だけがあります。

目を閉じる、感覚に帰る、ムダな反応をリセットする、そしてスタート。です。

フルマラソンに例えれば『目の前の作業』とは『ただその一歩を前に出すこと』余計なことは一切考えずにただただ無心でその一歩を前に出すことの繰り返しがサブ4(フルマラソン4時間切り)のでかい壁を乗り越えるコツだと、とあるサブ4ランナーが教えてくれました。

プチ修行 ラベリング

『言葉で確認』を自分の心についても行います。ラベリングというのはラベルを貼る。つまり名前を付けるようなイメージです。

・怒りを感じているときは『怒りの感情がある(わたしはオコている…)』と確認します。

・イヤな過去を思い出してしまうときは、『記憶を思い出している』と確認します。

・緊張しているときは、『緊張している』と確認します。

カギとなるのは、感覚であれ、感情、記憶、妄想であれ、自分なりの言葉でいいので、『客観的に言葉で確認する』ように努めることです。

このプチ修行は気づきの力を育てます。いずれも無駄な反応に流されず、今しなければいけないことに心を注ぐための練習です。

本書にはこのほかにもたくさんのプチ修行が掲載されています。その中にはきっとあなたにぴったりのプチ修行も見つかると思います。

『感情』のプチ修行

心は『ニュートラル』が基本

まず”感情”という心の領域について、基本を押さえておきましょう。感情は、一般に、喜び・怒り・悲しみ・楽しさなど、さまざまに表現されますが、仏教的には、感情は以下の3種類のみです。

  1. 快…好き・楽しい・ハッピーというポジティブな反応
  2. ニュートラル…快でも不快でもない状態
  3. 不快…嫌い・苦痛・イヤだというネガティブな反応

このうち一般に望ましい(理想)と思われているのは①>②>③でしょう。

人は快を追いかけ、不快を遠ざけたがる。しかし実際は『快に追いたてられ、不快に振り回されて生きている』。それが現実です。決して幸せになれているとはいません。

仏教的に望ましい『心の習慣』は”ニュートラルでいること”つまり、快にも不快にも反応しない状態であることです。

快か不快か二者択一ではなく、ニュートラルでいることが『心の基本』と知りましょう。

思えば、安らぎ、落ち着き、穏やかさ、思いやり、優しさ、そして大事なモノゴトに集中する力、へこたれずに持続する心の能力というのは、快か不快かではなく、ほぼすべてがニュートラルな精神状態から始まっているとわかります。

しかし実際には人と人とが関わるかぎり、反応は避けられません。話し合いや交渉事など『感情がモノを言う』場面も、よくあります。

そんな時に感情に支配されないための最大のコツは、『感情を外から眺める』(反応を客観的に見る)ことです。

プチ修行 『と言葉』

『感情を外から眺める』練習の第一歩は、自分の反応に”気づきの言葉”をつけ足すことです。

『~と(私は)怒っている(オコている)』

『~と(私は)反応している』

『~と(私は)不満を感じている』

この『と言葉』は”意識”を”気づき”に使うことで、反応を客観的に観察するとともに、反応の量を減らす意味があります。

『怒り心頭』とは”意識の大半”を”怒りの感情”に使っている状態ですが、『と(私は)怒っています』と”気づき”に使うことができれば、自分と怒りの間に距離が生まれ、意識の量が減り、怒りが少し収まります。

怒りの感情も”無常”です。だから、放っておけば確実にやがて消えていきます。カギは『それ以上に反応しないこと』です。

怒りには、いろんな”蜜”(快楽)があるのです。人は『怒りたくないけど、現実(相手・状況)がこうだから、”つい”怒ってしまうんだ』と訴えます。

しかし、怒りの背後に隠れている『心のしくみ』を理解すると、”つい”という言葉の裏には、『それなりの快があるから、怒りで反応することを許している』という事情があることが見えてきます。

プチ修行 『沈黙タイム』を作る

『仏教』を杓子定規に適用するなら、『愚痴をこぼしてはいけません』『悪口や批判は”正しい言葉”ではない』というのが、伝統的な教えです。たしかにそれは真実です。

ただもう少し厳密に考えて、なぜ批判的な言葉がいけないかといえば、言葉を発することで、自分自身の怒りや慢といった”煩悩”(心の苦しみ)が増えてしまうからです。

だから言葉を発せず、むしろ『沈黙を保つ』ほうが望ましいのです。

『沈黙』は人を相当冷静にします。ふだんの関係がいかに不躾で、相手の領域に無遠慮に踏み込んでいたかが見えてきます。

家庭なら夜の一時間は、家族全員で『沈黙』する。その間は、互いに話しかけない、干渉しない。なにをしてもいいけれど、互いの姿を見ても話しかけない。

職場でも『午後△からの一時間は『沈黙』すると決めてみるとよいでしょう。職場が『精神修養の場』に変わります。

『沈黙』は、驚くほど心を成長させます。また相手への尊重や正しく理解する眼を育ててくれる格好の修行です。

とはいえ、ずっと『沈黙』を決め込んでいては、こころが窒息してしまいます。そんな時は愚痴をこぼしてしまいましょう。ただし条件があります。

必ず『理解してくれる相手』に愚痴をこぼしましょう。

プチ修行 『わかってくれればありがたい』

人と人とが関われば、感情が生まれます。

その感情が収まるのは、ひとつは『自分の感情を、自分でよく理解できたとき』。もうひとつは、誰かに『理解してもらえたとき』です。

となると、人間関係の鉄則は『互いの感情を理解するように努めること』になります。

ただ、人生はせつないもので、誰にも理解してもらえない状況も、ときには生じます。

仏教の発想でいえば、理解してもらえるかどうかというのは、あくまで”他人の領域”です。

つまり、他人が理解してくれているかどうかは、他人が決めることで、自分自身が選べることではない。自分が選べるのは、自分自身の心の持ち方。そして、自分自身が誰よりも自分を理解しているかどうかです。

今の自分を、もしかしたら誰かが認めれくれるかもしれないし、いつまでも認めてもらえないかもしれない。わかってもらえたらありがたいけれど、わかってもらえなくても、それはそれでよい。孤独を恐れないこと。理解してもらえなくても、苦痛を感じないこと。

自分の心を理解することに努め、心の苦しみを減らして、喜びを増やしていく『心の使い方』を学んでいきましょう。その道のりが、孤独に負けない強さになります。

心の容量は『限られている』

ここで大事な真実をお伝えします。それは…

『反応に使える意識の量には限りがある』ということです。

つまり意識(心)には”容量”があって、人はその”手持ちの意識”を思考や感情などの反応に使っているということです。

たとえば『ムシャクシャする』のは、怒りの感情に意識を使っている状態。

『不安になる』のは、妄想に意識を向けている状態。

いずれも、他のことを考えられず、楽しむこともできませんね。となると、

”限りある資源”である意識(心)を『何に使うか』という視点が重要になってきます。

怒りに意識を使うのは、ムダ使いだし、損だし、もったいない。だって怒ること自体が不快だし、アタマが回らなくなるし、人間関係にも悪影響だからです。

心がけるべきは、限りある意識(心)を、自分にとって大切な人や大切なモノゴト、幸せのために使うという発想なのです。できるかぎり多くの時間を笑って過ごしたいものです。

『考え方』のプチ修行

自分にとって大事なモノゴト、喜びや良好な人間関係、持っている能力の発揮など、ほんとはそちらに心を使わなければいけないのに、アタマの中はゴミみたいな雑念で一杯です。

欲望、怒り、暗い妄想や慢(プライド)など、なくてもいい思いに占領されています。

こうした状態を抜け出すのには『正しい考え方』が必要なのです。混乱だらけの日常に”秩序”を与えること。先の見えない現実に”どう向き合えばいいか”がわかること。そのことで、人は迷いから脱出できます。

妄想と方向性は違うと知る

まず”方向性”とは、たどり着きたい将来の自分です。それは、仕事だったり、家族のあり方だったり、心の状態(心境)だったりします。

肝心なのは、『正しい方向性』でなければいけないということです。仏教における『正しさ』とは『苦しみがない』ことです。だから、不満や忌まわしい記憶などを心に持たないこと・クリーンな状態を保つことは『正しい方向性』に当たります。

『行動しないのが妄想で、行動に移すのが方向性』。マラソンに例えるなら『ゴールをめざす』と決めて、走り始めるなら、そのゴールは”方向性”。でもエントリーすらしていなく、走らないままなら”妄想”の段階になります。

人のアタマは、言葉で一杯です。考えすぎです。その結果、もともとなかった不満や妄想、人を貶めたり自分が正しいと拘ったりという慢などが、ぽんぽんと弾き出されています。

”慢”(自己愛・自分が正しい・エライという思い・見栄・プライド・優越感など…)

『心の中の張り合い』も『表立っての張り合い』も、その正体は”慢”です。つまり承認欲で反応している状態です。相手の慢に慢で反応するから、言い返せる立場にある(あるいは自信がある)人は言い返すし、そうでない立場なら、内心相手を見下すことで、自分の慢を満たしているのです。

プチ修行『小さく、小さく』

小さくとは、けっして慢をふくらませないこと。『自分が正しい』『自分がエライ』(優れている)という思いを持たないことです。

仏教では”つつしみ”と表現します。漢字では”慎み”と書きます。

”つつしみ”こそが、心の成長に大切だという考え方です。

つつしみは、一般に『謙虚』や『卑屈』に近いものと受け止められがちですが、意味はまったく違います。『謙虚』や『卑屈』は、『自分はまだまだ』『自分のほうが下』という”判断”が含まれてしまっています。

しかし仏教では『ただ理解する』だけです。自分をいちいち判断しません。

上とも下とも判断しなくていい。

自分自身にできること、今自分の心にある思いは、ちゃんと理解している。よく理解しているから、偉ぶる必要もないし、相手と張り合ったり、大きく見せようとしたり、自分の正しさ・優秀さをアピールする必要もない。そういう発想です。

自分のことをよく見つめている。正しく理解している。それゆえに『慢』を持たない。

それが仏教的『つつしみ』の意味です。

あらためて、人ってどんな生き物なのだろう…。

人は、自分の心の反応すら、思い通りにコントロールできません。日常は、いつも小さな欲と怒りと妄想と慢とに覆われて、ムダな反応・雑念だらけです。けっしてパーフェクトじゃないし、勝ってもいないし、優れてもいません。

大きな失敗やうっかりミスは、日常茶飯事。子どもの頃、学生時代の勉強、今の仕事・生活…どれを振り返っても明らかなことですが、自分ひとりで築き上げたものなど皆無です。

そうした現実の自分を見つめて、なお自分がエライ、正しい、相手より上、マシ、といった”判断”が、どうしてできるのでしょう。

人はみな過ちを犯す、不完全なものです。

自分自身を正しく理解しようと心がけたとき、人は”足元だけ”を見るようになります。

けっして人の動向を追いかけない、不必要に判断しない。自分を大きく見せようとも思わない。ただクリアな心の眼で、相手を見つめ、自分を見つめて、せめてよき働きをしよう、自分の生活を大事にしよう、と心がけるようになるのです。

正直、こちらの人生のほうが、はるかにラクで、快適な人生を過ごせます。

こうした心がけを『小さく、小さく』と表現するのです。

満願成就 すべては修行のうち

人間の悩み・苦しみは、心の反応が生んでいる。もしその反応を、正しい方法で静めることができれば、人はすべての苦しみを抜け出せるかもしれない…。

それが、2500年以上の歴史を持つ、”ブッダの教え”の根底にある考え方です。

『修行』とは、古代インドのブッダの時代には”bhavana”(バーヴェナー)と呼ばれていました。直訳すると『心を耕すこと』です。

『耕す』というのは、大地を整えて、穀物や野菜や果物をたくさん実らせるために行うことです。

手入れすることで、そのままではけっして実らなかったモノが実るようになる。

それが『耕す』ことの意味です。

この『耕す』が『修行』の本来の意味だというのは、とても興味深い符合です。

今までは25㎞までしか走れなかったランナーが38㎞まで走れるようになる。

42.195㎞を4時間以内で走れなかったランナーが4時間以内で走れるようになる。

つまり…

できなかったことができるようになる

これこそが『修行』の本来の意味なのです。

今あらためて思うことは、人間は何も知らない小さな生き物で、しかも与えられた時間は限られているということ。

だからこそ、つまらない拘りはいさぎよく捨てて、できなかったことができるようになる喜びを大事にしようではないか、ということです。

できないこと、知らないことがあるのは当たり前。だからこそ反省もするし、ときめくし、明日を信じて、今を生きることができる。

息を切らしてさ♪駆け抜けた道を♪振り返りはしないのさ♪ただ未来へと夢を乗せて…♪

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

2023年10月29日(日)サブ4達成!!




ABOUT US
kee
フルマラソン3:27:43!! ファイナンシャルプランナー&JADPメンタル心理カウンセラー&上級心理カウンセラー! 普段は食品工場で仕事をしています。ランニング大好き、料理大好き、サッカー大好き、キャンプ大好き、お酒大好き、釣り大好き、激辛大好き、読書大好き、書ききれないほどの大好きに囲まれて毎日幸せを実感しています。夢はホノルルマラソンに出ること。 座右の銘『明日死ぬかのように生きよ、永遠に生きるかのように学べ』 このブログは忘れやすい私の備忘録、私の脳の第2領域です。