こんにちは!!keeです。今回は鈴木 祐さんの著書、『無=(最高の状態)』を読了しましたので、お気に入りのポイントを中心にアウトプットしていきたいと思います。
この本はこんなヒトに…
- 気疲れしやすく、いつも疲れてしまう
- 幸せな環境なのになぜか幸せを感じない
- 不幸ではないが生きる意味が感じられない
- 未来に明るい展望が抱けず、すべてから逃げたい
- 他人の何気ない言葉に傷ついて頭から離れない
などなど、人生に何らかの生きづらさを感じ、安らかに日々を過ごせないヒトにおすすめします。
この本の目的は、
あなたの不安や心配事をクリアにし、
あなたが生まれ持つポテンシャルを
取り戻すお手伝いをすることです。
無=(最高の状態)鈴木 祐
苦 Suffering
『人生は苦である』ゴータマ・ブッダ
簡単に言えば、ブッダは『生きづらさは人間のデフォルト設定だ』と説いたわけです。
細かい対策ならいくらでもあります。その対策を実践すれば何がしかのメリットは得られるはずですし、少しでも人生の苦痛が減るなら実践すべきです。
しかしどのような手段で立ち向かっても『人間は”苦”がデフォルト設定である』事実は動かず、細かい対策は激流を泳ぐようなもの。いかなる幸福もすぐにベースラインに戻り、あなたは再びデフォルト設定の支配下に置かれます。
では人間は苦から逃れ得ぬ存在とあきらめ、粛々と土に還るべきなのでしょうか?
自己 Self-consept 苦しみを生むメカニズム
他人の悪口に延々と怒りを覚え、自分の失敗をいつまでも恥じ、将来の生活や健康に飽くことのない不安を抱く生物は地球上で私たちだけです。ヒトだけが『苦しみ』をこじらせるのはなぜでしょう?
結論から言えば、すべての状況は『あなたのニーズが満たされない状態』としてまとめることができます。
悟りを開いた人間といえば、何事にも心が動じないイメージがあります。しかし、実際には喜怒哀楽の感情を持つ点では常人と変わらず、本当の違いは他にあります。
それは『二の矢』が刺さるか否かです。
生物が生き抜く過程では、ある程度の苦しみは避けられません。さまざまな苦境は誰にも等しく訪れます。あらゆる苦しみはランダムに発生し、いかなる知性でも予測は不可能でしょう。
この絶対的な事実が『一の矢』です。
ここで多くの人は自分に向けて『二の矢』を放ちます。最初の矢に反応した脳が目の前には存在しない過去と未来のさまざまな思考を生み、そこに付随して表れた新たな怒りや不安や悲しみという名の『二の矢』であなた自身を貫き、いよいよ苦しみは深まっていきます。
人類が他を圧倒できたのは私たちが持つ過去と未来を思い描ける能力のおかげですが、これが同時に苦悩の火種に油をそそぐ元凶なのです。
虚構 The kingdom of fiction 自己が物語で構成されている事実
ヒトの脳は物語の製造機
脳のストーリーテリング機能は昼夜問わず働き続けており、何か嫌なことがあった直後にも「私はこの人に嫌われている」とか「私は他人より不幸だ」といったマイナスの『虚構』を作り出し、それをあたかも唯一の『現実』であるかのように思い込ませます。これが、私たちを悩ませる『苦しみ』の起源です。
それもこれも自己という虚構を絶対視する態度が原因です。
こう考えると『ありのままの自分でいよう』や『自分らしく生きよう』といったアドバイスの困難さがわかるでしょう。いかに本当の自分を追い求めようが、私たちがどのような人間かは周囲の物語によってコンスタントに変わりますし、そもそも自己の感覚そのものが物語と物語の間に生まれる架空の概念でしかありません。
ドーナツの穴を食べることができないように、ありのままの自分を探すのもまた不可能なのです。
結界 Bai sema 心身に安心感を与えて自己を消す土台作り
【結界】とは、
- (仏)修行や修法のために一定区域を限ること。また、その区域に仏道修行の障害となるものの入ることを許さないこと。
- 寺院の内陣と外陣との間、または外陣中に僧俗の座席を分かつため設けた木棚。
ここで言っているのはあくまで脳科学の知見に基づくエビデンスベースドな『結界』です。
結界の力であなたの内側に安心感を生み、自己を捨てても恐怖を抱かないメンタルに整える方法がいくつも書かれています。
気になる方はぜひポチっとして下さい。
『現在』は未来の不安と過去の失敗が存在しない安全地帯であり、目の前の世界から振り落とされなければそれ以上の災いは起きようがありません。
心を『現在』に引き戻す『グラウンディング』など、修行を正しく行うための精神の土台を作る作業が『結界』です。
悪法 Evil laws あなたの脳に埋め込まれた物語を引きずり出す
私たちの自己は進化が進んだ生存ツールのひとつであり、環境に応じて脳が作り出す物語で形成された虚構の存在です。
あなたの判断は物語の影響を大きく受け、あなたの行動を導く法律のような働きをしています。人間の行動がときに『歪んだ法律』によって動かされてしまうのは言うまでもなく、言うなれば私たちは『悪法』に人生を左右されているわけです。
この章では、苦しみを左右する18の悪法から自分の悪法を把握し、その悪法に対処する方法が詳しく書かれています。
頭の奥の『これが唯一の真実だ』とささやく悪法に、他にも無数の可能性が存在することを教え込みます。
降伏 Letting go 現実を認めて苦しみを迎え入れる技術
苦しみ=痛み×抵抗
私たちが抱く『苦しみ』は、抵抗すればするほど逆に威力を増す性質を持っている。
私たちが人生で出くわす『一の矢』(痛み)は誰にも避けられません。そこに『現実への抵抗』という行為が加わることで、『二の矢』(苦しみ)が生まれるわけです。
ならば私たちが取れる対策はひとつしかありません。すなわち、現実に対して積極的に『降伏』するのです。
降伏とはあなたが直面している現実を認め、それに正面から向き合うことを意味します。受け身な印象が強いですが、実際にはどこまでも積極的な選択です。
怪我をしたとしても『私はいま傷の痛みを感じている』という事実を受け入れ、あとはできる限りの治療をすることのみ。いくら自分の運命を呪ったところで問題解決の役には立たないため、現実の痛みには潔く降伏した上で、なすべきことだけをなす。という選択をする。
『死のうと思えば、いつでも死ねる。いまは降伏と洒落込もうではないか』軍学者:大鳥圭介
人生の痛みに立ち向かうのはいつでもできます。しかし、そこで降伏と洒落込む余裕ができたとき、私たちは脳が生む出す物語に巻き込まれにくくなります。
無我 Selflessness 物語と自分を切り離す
『停止』と『観察』
『停止』とは、脳のリソースを何かほかのことに使い、物語の製造機能そのものを止めてしまう方法。私たちは物語の自動発生をピンポイントで止めることはできません。それならば、自己に関わる機能を丸ごと止めてしまうしか手はありません。
『観察』は、あなたの脳内に浮かぶ物語をじっくりと見つめる作業を意味します。人前で失敗した過去のイメージ、嘘がバレたあとの恥ずかしい感情、身体の不調や内面の不安など、すべてのネガティブな物語をそのまま見つめ続ける態度、要は科学者になったようなつもりで観察し続けるのが基本です。外界の変化もいたずらに『自分ごと』にせず、ただ脳内で起きた現象のひとつとして観察します。
『停止』の力で物語の強度を限界まで下げ、『観察』の力で物語を現実から切り離す。
この二つが『無我』を達成するためのスキルです。この技法にはさまざまな種類があり、特定のトレーニングを不快に感じるなら、別のやり方を選ぶべきです。
私は、脳内のイメージや呼吸など特定の対象に意識を向ける瞑想の『止想(しそう)』で『停止』スキルを養い、『観察』のスキルは、雲の中にいるあなたのそばを、別の雲が通り過ぎていくのを見つめて、通り過ぎる雲の観察日記をつけるかのように、自分の思考や感情を取り扱う『観想(かんそう)』によって養っています。
自分のことを大きな山だと想像してみてください。
山の天気は変わりやすく、あるときは快晴に恵まれ、またあるときは雷雨に見舞われます。火事が起きるかもしれませんし、植物が盛大に花を咲かせるかもしれません。
しかし、どんなことが起きても山が山であることには変わりなし。
どれだけ天候が荒れようが、山そのものはただの『場』でしかないでしょう。
自己が鎮まったあなたも、またひとつの『場』となり、思考と感情がどれだけ荒れ狂おうが、あなたはすべてと無関係に存在を続けます。
智慧 The wisdom
『無我』がもたらす3つの世界観の変化
- 無我はあなたを永遠の初心者に変えます。
- 無我は変化への限りない受容力を生みます。
- 無我はあなたに圧倒的な自由をもたらします。
あなたが友人から言われのない非難を受け、すぐに怒鳴り返したとしましょう。悪口に言い返すことが良いことか悪いことかは状況によって異なりますが、いずれにしてもその行動が相手の行為への反射で起きたところは変わりません。
あなたの反応は相手の言葉によってコントロールされただけであり、まったく違う行動を選ぶことができた可能性を自らの手で放棄したことになります。
無我に至った者は、不快な感情からいったん距離を置けるため、衝動的な反応が正当なものなのかを見極める時間を持てます。それゆえに外部からのコントロールに巻き込まれず、行動の選択肢を自らせばめてしまうこともありません。
すなわち本当の自由はあなたと自己の間(あわい)に生まれるのです。
おわりに
この世界における唯一の不変は『常にすべてが変化する』という事実のみですから、精神の先祖返りはどうしても避けられません。いまの私たちにできるのは、世の移り変わりに抵抗するのではなく、だからといって変化に服従するのでもなく、『停止』と『観察』を繰り返すことだけです。
『”わたし”とは生命維持機能がもたらす明滅である』
最後まで読んでいただきありがとうございました。