こんにちは!keeです。本日は紹介するのは数々の著名人が『人生を変えた1冊』として挙げる『夜と霧』です。有名な話では、宇多田ヒカルが生きる意味についてファンから聞かれたときにこの本の話をしながら自身の考えをこんなふうに答えていたそうです。
『問い続けること、愛すること、学び続けることが、私の生きる意味かなぁ…』
宇多田ヒカル
心理学者、強制収容所を体験する…
『夜と霧』は、ナチスによるホロコーストの実態を描いた作品であり、人間が極度の苦しみや悲しみを経験した場合、その中で人間とは何か、生きる意味とはなにかを問いかけています。
先に収容所に送られた人々が受ける過酷な扱いについて話しておかなければなりません。
- 飢えと栄養不良:収容所に送られた人々は、非常に少ない食糧しか与えられず、十分に栄養を摂ることができませんでした。その結果、多くの人が栄養不良になり死亡しました。
- 虐待と拷問:収容所での虐待と拷問は日常茶飯事でした。収容者たちは、非人道的な扱いや、残虐な実験などに晒されました。
- 暴力と殺人:収容所では、警備員たちが収容者たちを容赦なく暴力で支配し、時には殺害することもありました。また、収容者同士の暴力も起こりました。
- 疾病と医療不足:収容所では、多くの人が伝染病や疫病にかかりました。しかし、医療設備や医薬品は不十分であり、多くの人は医療不足のために死亡しました。
- 心理的苦痛:収容者たちは、非常に過酷な環境下で生活を強いられたため、心理的な苦痛も受けました。家族や友人を失ったり、暴力や虐待を目の当たりにすることで多くの人の心が病みました。
精神の自由
人間の精神が収容所という特異な社会環境に反応するとき、ほんとうにこの強いられたあり方の影響をまぬがれることはできないのか、このような影響には屈するしかないのか、収容所を支配していた生存「状況では、ほかにどうしようもなかったのか…」
感情の消滅を克服し、あるいは感情の暴走を抑えていた人や、最後に残された精神の自由、つまり周囲はどうであれ「わたし」を見失わなかった英雄的な人の例はぽつぽつと見受けられた。
人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、
『人間としての最後の自由』だけは奪えない。
つまり人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。
典型的な「被収容者」になるか、あるいは収容所にいてもなお人間として踏みとどまり、おのれの尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのだ。
およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。
苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。
苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。
生きる意味を問う
『生きていることにもうなんにも期待がもてない』
こんな言葉にたいして、いったいどう応えたらいいのだろう。
ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。
わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることが、わたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ。
哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。
生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。
医師、魂を教導する
とらわれのない目には、お先まっ暗だと映ってもしかたがない、また、わたしたちはそれぞれに、自分が生き延びる蓋然性(がいぜんせい)はきわめて低いと予測しているだろう。
生存率は5%と見積もっている。
わたしは、にもかかわらずわたし個人としては、希望を捨て、投げやりになる気はない、なぜなら、未来のことはだれにもわからないし、つぎの瞬間、自分になにが起こるかさえわからないからだ。
そして、たとえあしたにも劇的な戦況の展開が起こるとは期待できないとしても、すくなくとも個人のレベルでは大きなチャンスは前触れもなくやってくることを、わたしはよく知っている。
『あなたが経験したことは、この世のどんな力も奪えない』
わたしたちが過去の充実した生活のなか、豊かな経験のなかで実現し、心の宝物としていることは、なにもだれも奪えないのだ。
そして、わたしたちが経験したことだけでなく、わたしたちがなしたことも、わたしたちが苦しんだことも、すべてはいつでも現実のなかで、永遠に保存されるのだ。
人間が生きることには、つねに、どんな状況でも、意味がある。
この存在することの無限の意味は苦しむことと死ぬこと、苦と死をもふくむのだ。
ものごとを、わたしたちの状況の深刻さを直視して、なおかつ意気消沈することなく、わたしたちの戦いが楽観を許さないことは戦いの意味や尊さを、いささかも貶(おとし)めるものはないことをしっかりと意識して、勇気をもちつづけてほしい。
わたしたちひとりひとりは、この困難なとき、そして多くにとっては最期の時が近づいている今このとき、だれかの促すようなまなざしに見下ろされている。
それは、友かもしれないし、妻かもしれない。生者かもしれないし、死者かもしれない。あるいは神かもしれない。
そして、わたしたちを見下ろしている者は、失望させないでほしいと、惨めに苦しまないでほしいと、そうではなく誇りをもって苦しみ、死ぬことに目覚めてほしいと願っているのだ。
犠牲の本質は、政治的理念のための自己犠牲であれ、他者のための自己犠牲であれ、この空しい世界では、一見なにももたらされないという前提のもとになされるところにある。
わたしたちはひとりも残らず、意味なく苦しみ、死ぬことは欲しない。
この究極の意味をここで、今、実際には見込みなどまるでない状況で、わたしたちが生きることにあたえるためにこそ、わたしはこうして言葉をしぼりだしているのだ。
おわりに
ホロコーストとは、第二次世界大戦中にナチス・ドイツが実施したユダヤ人を中心とした迫害、虐殺、強制労働などの一連の行為を指します。この事件は、ヨーロッパのユダヤ人を中心に、ロマ(ジプシー)や身体障がい者、同性愛者など多くの人々が犠牲になりました。
ナチス・ドイツは、1933年に政権を掌握した後、ユダヤ人をはじめとする少数派を弾圧する政策をとりました。その後、1941年には東部戦線での戦争を口実に、強制収容所や絶滅収容所に数百万人のユダヤ人や他の少数民族を送り込み、残酷な方法で殺害されるなど、人道的な観点からも非常に残忍な出来事でした。
この事件は、人類史上でももっとも悲惨な事件の一つとされており、常にわたしたちに対して反省と警告を与えてくれています。
最後まで読んでいただきありがとうございました。