こんにちは!!keeです。私は普段から、心と身体の健康がすべての土台と考えています。
その二つの土台のどちらかに不安があれば、自分専用ものさしは気が付かないうちに小さくなり、その結果、以前ならなんとも思わなかった様な出来事で、折れてしまったり、めげてしまったり、落ち込んでしまうというようなことが起こると考えています。
反対に心と身体の健康が保たれていれば、嫌な出来事でもポジティブに捉えられる可能性は前者より格段に上がると考えています。
今回はその『心』の健康法を禅の思考法から見たヒントの話。
嫌なこと、つらいことに押し潰されないたくましさ。
苦しい状況や困難な局面に置かれても、折れたり、へこんだりしないやわらかさ。
その瞬間は落ち込んだり、めげたりしても、すぐに立ち直れるしなやかさ。
自分に批判的な周囲の声に接しても、『まぁいいか』と受け止められることができるおおらかさ。
さぁ!あなたの『図太さ』を育てていきましょう!!
ちょっと図太くなってたくましく生きる

図太い人は人間関係もいい意味で『鈍感』
人が傷ついたり、悩んだりする原因の大半は人間関係にあるのではないでしょうか。
繊細さを持ち合わせている人は傷つく度合いが、より大きいと言えるかもしれません。
言った本人には悪意など微塵もないのに、つい深読みしてしまう。少しぶっきらぼうな態度をとられただけで、嫌われていると思い込んでしまう…。
図太い人は、他人の言動に対していい意味で『鈍感』です。
考えてみれば、意識して邪険な態度をとることなど、そうそうあるとは思えません。
そうであるならば、心ないと響く言葉は”うっかり”口が滑って出たもの、
こちらを不快にさせるふるまいは”たまたま”虫の居所が悪かったもの、
である可能性が高いわけです。
そこに悪意や悪感情を嗅ぎ取るのは過剰反応というものです。
禅は『比べる』ことをもっとも嫌う
人にはさまざまな思いがありますが、特に困ったものがあります。
『劣等感』がそれです。
劣等感は自分と他人を比較することで生まれます。
他人と比べて自分は劣っているという思いは、心を縮こまらせますし、悩みや苦しみに繋がっていきます。
しかし、よく考えてみてください。
自分より仕事の能力のある同期を羨んだら、自分の能力は高まりますか?
綺麗な彼女を妬ましく思ったら、自分が美しくなるのでしょうか?
他人と比べたところで、自分はなにひとつとして変わらないのです。
自分を見つめ、以前の自分と今の自分の比較することで、変化を感じる。
それ以上の自己検証はありません。
さらにできなかったことができるようになった自分を知ることは、心にとって大きな喜びですし、もっと自分を飛躍させるための確かな原動力になります。
図太い人は、人間関係にも強い
『一人の時間』を持って、自分を見つめ直す
人にはみな、どこかしら『批評家』という面があるようです。鋭い観察眼をはたらかせて、同僚や友人の何かしらに対して、辛口コメントを寄せているわけです。
批評の対象は、外見だけにとどまらず、人生そのものにも及びます。
他人のことはよーく見えているのです。その反面、案外、見えていないのは自分自身ではないでしょうか。
『七走一坐』
この禅語は、七回走ったら、一回は止まってじっとすわり、自分自身を見つめなさい、ということ。時間に追われ、走り続けている現代人に警鐘を鳴らす言葉と言ってもいいでしょう。
止まって見つめ直してみなければ、自分がどんな走り方をしているのか、どこに向かって走っているのかは、よく見えません。
その結果、自分を見失うことにもなる。
だから少し走ったら一度止まってみることです。
一度、止まると書いて『正』という字になります。
止まって見直せば、自らが来た道が正しかったかがわかるのです。
悩みを楽しむ方法は『知足』にあり
悩みを抱えているとき、人は『なぜ、自分だけが!』という思いにとらわれがちです。
でもこの世に悩みのない人などいません。悩むということは生きている証なのです。
あっけらかんとしている人も、もしかしたらもっと多くの深い悩みを抱えているかもしれません。
違いがあるとすれば、悩みとの付き合い方でしょうか。
『知足』 …文字通り、『足る』を『知る』という意味の言葉です。
足ることを知っている人は、たとえ地べたに寝るような生活をしていても、心は安らかで幸せを感じることができる。
困難な状況に置かれることはつらいことです。
しかし、その困難は乗り越えるためにある、乗り越えることで自分がひとつ成長できる、と考えられたらどうでしょう。
悩みなどどこ吹く風という感じであっけらかんとしている人は、きっとそういう受け止め方をしているのです。
人生は山もあれば谷もあります。山があるから谷もあります。
いつも山の頂上に居続けられる人生などありません。
人生の折々で自分が置かれる状況は、たとえ、どんなに困難なものであっても、それを避けて通ることはできない、そこから逃れることはできないのです。
であれば、その苦しさでさえも楽しみながら登っていくだけです。
その先で、どんな自分に出会えるか、楽しみですね。
図太い人は、気持ちの切り替えがうまい
自分の不遇を『人のせい』にしない
人は逆境であったり、つらい立場に置かれているとき、その原因を外に求めがちです。
自分の不幸せは『世の中のせい』ではありません。
置かれた状況で咲きなさい。咲けない時は下へ下へと根をのばしなさい。
いかなる状況でもそれをどう捉えるかは自分次第です。
怒りをため込まないで、図太く解消する
怒っている相手と同じ土俵に上がらない
怒りに怒りで対応するのは、相手の土俵に上がることです。
怒りをもって怒りを制することはできません。
どうせ上がるなら、もっと高みに上がるのがいい。視点を土俵のはるか上に据えて相手を見下ろすのです。
『感情に振りまわされて怒っているあなたは、その程度の人間なんですね。残念ながら、私は相手にはなりませんよ。どうぞ、怒りとひとり相撲をとっていて下さい』
これが図太い人の対応。こちらが取り合わなければ、ほどなく相手も自分一人が力みかえっているみっともなさに気づき、矛を収めるしかなくなります。
いちばんの『仕返し』は堂々と生きること
みなさんは、腹に据えかねることがあって、仕返しを心に誓ったことはありませんか?
抑えられない”報復心”に虎視眈々と機会をうかがい、時間をかけて準備をして”みごと”仕返しに成功したとして、本当に心から喜べるでしょうか?
人を陥れたり、傷つけたり、やり込めたりしても、胸のつかえがとれるのはほんの一瞬。
しかも相手がさらなる報復に出てくる可能性は、ちいさなものでないでしょう。
『報復の連鎖』は世の常。歴史もそれを証明しているように、仕返しは自分に戻ってくるのです。
人は、過去、現在、未来という時間の流れのなかで生きています。しかし、たった『いま』生きているのは、まぎれもなく現在です。その現在は過去の後でもないし、未来の前でもない。
過去とも、未来とも切り離されて、絶対的な現在(いま)がある。
さて、騙されたり裏切られたり傷つけられたりといったことがあったのは『過去』です。
いまを胸を張って、堂々と、毅然と生きている姿は、そんな相手にどう映るでしょうか?
『負けた…』と、きっとそう映るはずです。
図太さを貫いたその先に

自分の『心の声』を聴く
『坐禅』の『坐』という字を見てください。『土』の上に二人の『人』がいます。
すわっているのは一人なのに、なぜ、横にもう一人いるのでしょう。
一人はいうまでもなく自分です。そして、横にいるもう一人は心の中の自分。
坐禅の意味は心の中の自分とじっと向き合うところにあるのです。
人は無意識のうちに過ちを犯したりするものですし、他人を傷つけてしまうことだってあるものです。
言うまでもないことですが、人は決して完璧な存在ではありません。
ですから心の中の自分と向き合うことが大切なのです。それほど心を強く鍛えるものはないのです。
禅の修行で、毎日坐禅をするのは、自分の至らなさ、未熟さに気づくためといっても決して的外れではありません。
究極の図太さとは、『ただの人』として生きること
ビジネスパーソンにとって出世は人生の目的のひとつでしょう。ひとつの、というよりは、もっとも大きな目的だと考えている人も少なくないかもしれません。
多くの収入を得たり、社会的な地位を獲得したりすることを、望まないということはないでしょう。
ですから、出世に血道をあげることが、一概に悪いというつもりはないです。
でも、『たかが、出世じゃないか』という感覚は持っていていただきたい。
仮に出世をきわめた美酒に酔いしれたとしても、その座を退けば、『ただの人』になるわけです。
仮の姿である肩書きからも、地位からも離れた、『ただの人』としてどう生きるかに、人生はかかっている。
人生の幕を下ろし、いざ旅立つときに、
『あぁ、いい人生だったぁ。やることはやりきった』
と感じることが出来る人生がいちばんすばらしいのです。
『ただの人』としてしっかりと生きるということは、人間として成長を続けていくことだと思います。
一日一日、踏み出す一歩一歩が、人間として厚みを増すことに繋がっているかどうか。
そのことがカギを握っています。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。