こんにちは!!keeです。先日、ついについに私も電子書籍デビューしました。ずっと『kindle Oasis』に憧れていましたが、悩みに悩みに悩んだ結果、楽天経済圏で生きているということが決定的な理由となり『Kobo Libra H2O』を購入しました。KoboLibra購入後に、最初の第1冊目に選んだのが草薙龍瞬(くさなぎ りゅうしゅん)さんの著書『反応しない練習』あらゆる悩みが消えていくブッタの超・合理的な「考え方」です。なぜこの1冊なのかというと、いろんな本を読み、本の内容から最低でも1つを実際に行動に移し、ブログでも、書評を記事にすることを半年以上続けている私自身が、未だに他人の評価や視線や態度を気にして『一喜一憂』してしまうという苦しい生き方から抜け出せずにいたこと、そしてこの『反応しない練習』というタイトルの特に『練習』という部分が、積み重ねることによって少しずつ現状を好転させることができるかもしれないという『希望』をくれたからです。
ブッタ【仏陀】と聞くとお釈迦様を想像する方が多いかもしれませんが、それはかなり昔の話のようです。お釈迦様はゴータマ・シッダールタという仏教の創始者のことで、2500年前頃に生まれたとされています。ネパール西南部の釈迦族の国の王子であったため、釈迦と呼ばれるようになりました。初期仏教では釈迦ただひとりのことを【仏陀】と呼びますが、現在の仏教では、悟りの最高の位『仏の悟り』を開いた人を【仏陀】と呼び、個人を表すものではないということです。
すべての悩みは、『たった一つのこと』から始まっています。
それさえわかれば、あとは『正しく考える』ことで、どんな悩みも必ず解消できます。
たとえば、朝の通勤ラッシュで「今日も混んでる」とゲンナリする。これは心を憂鬱にさせる反応です。心ない相手の態度にイラっとする。これは怒りを生む反応です。大事な場面で「失敗するかもしれない」とマイナスの想像をしてしまう。これは不安や緊張を生み出す反応です。
私たちの心は絶えず『反応』を繰り返しています。その結果として、日頃のイライラや、落ち込みや、先ゆきへの不安やプレッシャー、苦い後悔などの『悩み』が生まれます。
つまり悩みの始まりには必ず『心の反応』があります。それが『たった一つのこと』です。だとすれば、すべての悩みを根本的に解決できる方法があります。それがタイトルにもある、
『ムダな反応をしない』
ということです。
※勘違いされやすいのですが『反応しないこと』というのは、無理して我慢することや、無視(シカト)をすること、無関心でいることではありません。それではただの『反応の薄い人間』になってしまいます。『反応しないこと』を言葉として聞いたり、見たりすると少し冷たく寂しい印象を受けますが、そうではないことをしっかり説明するので最後までお付き合いください。
『心のムダな反応を止めることで、いっさいの悩み・苦しみから解放される方法』
『仏教』という言葉から連想するような『宗教』的な内容とはまったく異なる実用的で合理的な『考え方』を教えてくれるのが本書です。
かなり長くなりますがこの記事を最後まで読んでいただければ、明日のあなたの心が今のあなたの心より幸せになることを約束します。
実は…『あなたの人生のゴールはあなたのすぐそばにあります』
それでは始めましょう。
もくじ
反応する前に「まず、理解する」
悩みをなくそうとしない。「理解」する
人生には悩みはつきものです。しかし『悩みの正体』がわかっている人は意外と少ないものです。漠然とした満たされなさを感じながらもその『悩みの正体』がわからなければ解決はできません。
ブッタの考え方は、
『人生には悩み、問題がつきものなのだ』
という現実を、まず最初に受け入れてしまうことから始まります。
『ある』ものは『ある』
と、まず理解すること。わたしには満たされなさ・未解決の悩みがある、と自覚すること。
それができれば、『漠然と悩んでいる状態』から『では、どうすれば解決できるか』と思考を一歩前に進めることができ、解決への『希望』が見えてきます。
それでは、悩み・苦しみの『原因』は一体なんでしょうか?
その答えは『執着』です。
『執着』とは、手放せない心。どうしてもしがみついてしまう、こだわってしまう、怒りや、後悔や、欲望といった思いの数々のことです。そしてそうした手放せない心が『原因』となって、悩ましい現実を作り出しているのには、『心の反応』があります。それこそが『悩みの正体』です。
『心の反応』こそが人生のトラブル、悩みを惹き起こしているということを、まず理解してほしいです。
『一体それに何の意味があるのだ』
それではその『反応を作り出している真の理由』とは何なのか?
人間が抱える不満や物足りなさについて遡って考えていくと、人の心の底に、生きている間ずっと流れている意識『求める心』に辿り着きます。
『求める心』は『七つの欲求』に枝分かれします。
- 生存欲【生きたい】
- 睡眠欲【眠りたい】
- 食欲【食べたい】
- 性欲【交わりたい】
- 怠惰欲【楽したい・さぼりたい・ダラダラしたい】
- 感楽欲【美しいものを見たり、心地よい音を聴くなどの感覚の快楽を味わいたい】
- 承認欲【認められたい】
『求める心』があり、それが『七つの欲求』を生み、その欲求があるから人は『反応』し、時には欲求を満たす喜びが、時には欲求がかなわない不満が生まれる、その繰り返しが『人間の人生』です。
仏教では『求めつづけて、いつまでも渇いている、満たされない心』を『渇愛(かつあい)』と表現するように、大切なのは、
『心とは求めつづけるもの。それゆえに渇きつづけるもの。』
と理解しておくことです。そうすれば俯瞰でみて『人生とはそういうものなのだ』と大きな肯定ができるようになります。
『七つの欲求』の中でもわたしたちにとって最も切実なテーマとしてあげられるのは『承認欲』です。これは人間にのみ存在する欲求で、動物にはないのだそうです。
つい反応して、人の目を気にして、嫉妬に駆られ、較べたり、競争したり、舞い上がったり、落ち込んだりと、動揺しまくりの人生を繰り返してしまいますが、この場合にも『ある』ものは『ある』、『わたしには承認欲があるのだ』と素直に受け入れてしまいましょう。
不思議なことにその『こころの渇きの正体』がわかるだけでその不満状態から抜け出せてしまうこともあります。その上で、
『あの人に認められたところで、一体それに何の意味があるのだ』
と超クールに考えられるようになります。
そしてほとんどの場合、それには何の意味もないことの方が多いのではないでしょうか。
心の状態を「きちんと見る」だけで
『心の状態を見る【心の状態を理解する】』3つの方法
①ココロの状態を言葉で確認する
『緊張しているな』『イライラしているな』『考えがまとまらないな』というように客観的に自分の心の状態に名前をつけるようなイメージで確認します。『言葉で確認する』ことはメンタルヘルスの基本です。
②カラダの感覚を意識する
呼吸しながらお腹のふくらみ、縮みや鼻先を出入りする空気の感覚に意識を向け、感じ取るようにします。歩いているときは動く足の感覚、足の裏の感覚に集中し、その感覚を感じ取ります。これは瞑想の世界では『マインドフルネス』と呼ばれています。
③アタマの中を分類する
心の状態を、観念的に人間の三大煩悩であり、『三毒』と呼ばれる『貪欲』『怒り』『妄想』の三つに分類します。
『貪欲(とんよく)』過剰な欲求に駆られている状態。『求めすぎる心』と言い換えることができます。
『怒り』不満・不快を感じている状態。イライラしている、機嫌が悪い、ストレスを感じるときはここに分類しましょう。
『妄想』想像したり、考えたり、思い出したりと、アタマの中でぼんやりと何か考えている状態。人間が最も得意で大好きでほぼ一日中絶え間なく繰り広げているナンバーワン煩悩です。
心に『貪欲』『怒り』『妄想』のどれが存在するのか、観察します。『欲が働いているのか』それとも『怒りを感じているのか』または『これは妄想ではないのか』に分類します。(たいてい三つともあったりします)
『正しい理解』とは、『自分はこう考える』という判断や、解釈や、ものの見方をいっさい差し引いて、『ある』ものは『ある』とだけ、ありのままに、客観的に、主観抜きの『ニュートラル』な目で、物事を見据えることを意味します。徹底した『クリア』な心で、自分を、相手を、世界を、理解することを『正しい理解』と表現しています。
良し悪しを「判断」しない
「ムダに判断」していませんか
人が悩んでしまう理由の一つに『判断しすぎる心』があります。
『判断』とは、意味があるとかないとか、生きている値打ちがあるとかないとか、優れているとか劣っているといった『決めつけ』『思い込み』のことです。厄介なのは『判断』にはわかった気になれる気持ちよさと、自分は正しいと思える(承認欲を満たせる)『快楽』があることです。だからみんな、判断することに夢中です。たしかに必要な判断は存在します。しかしどんな判断であれ『執着』してしまうと、苦しみが生まれてしまいます。『こうでなければ』という自分の人生や、相手への期待も、それだけでは、ただの『判断』にすぎないのです。
『判断はアタマの中にしか存在しない妄想である』
人は、苦しみ続けるより、苦しみから自由になることを、人生の目標にすべきです。
過去も、判断も、全部『手放す』。あなたにも『判断』による苦しみがなかった時代があったはずです。もう一度、あの頃の『自由な心』を取り戻しましょう。
人間というのは、物事の一部しか見えていません。そもそも立っている場所も、見ているものもまったく違うにもかかわらず、すべて理解した気になって『自分は正しい』と思い込んでいます。『どう考えても』というその『考え』は、自分のアタマで考えたことである以上、『どう考えても』自分の考えしか出てきません。そもそもわたしたちに誰かを、いい人、悪い人と『判断』する資格はあるのでしょうか?
『ムダに判断』せず『正しい理解』をして、真実であり、有益であることのほうが大事と考えれば、ストレスもたまらず、互いにわかり合い、貢献し合える関係が可能になります。
判断を止めれば、人生は流れ始める
人生に、あやまち、失敗はつきものです。ただ肝心なのは、そのとき『どう対応するか』です。
落ち込まない。凹まない。自分を責めない。振り返らない。悲観しない。
それより、今を見据えて、正しく理解して『ここからできること』に専念しませんか。
過去の汚れを捨てて、新たな汚れを作らない。
智慧(ちえ)に目覚めた人は、思い込みから自由になって、自分を責めることをしない。
心の内側も、外側もよく理解するがよい。
ただそれによって自分の価値を測ってはならぬ。
その思い(判断)は、よろこびにつながらないからである。
「自分は優れている」とも、「劣っている」とも、「等しい」とも判断するな。
さまざまな言葉を受けても、自分の価値を判断しないようにせよ。
さまざまな煩悩(評価・計らい・判断)が消滅した境地こそが、よろこびである。
その者は、すでに勝利している。他者に負かされることは、もはやない。
マイナスの感情で「損しない」
相手はいつでも「初めて会った人」
心理学では、心は1日に『7万個』もの想念を思い浮かべるのだそうです。約1.2秒に1個の思いです。心というのはそのくらい目まぐるしく変化しています。『心は無常である』ということです。
心が無常なら、人も当然、無常です。
昨日会ったあの人は、今日会っても同じ人。でも実はその人は、背格好や、名前や、仕事や、住んでいる場所は同じでも、昨日とは心が変わっているから同じ人ではありません。ちょっと寂しい解釈に感じますが、私はこの『相手はいつでも初めて会った人』という考え方が好きです。
なぜなら『過去にあんなことをした(された)、こんなことを言われて傷つけられた相手』というのは結局のところ、こちらの『執着・判断』です。『新しい人』として向き合うか、『昨日のあの人』として向き合うか、結局それを選んでいるのは自分自身です。『相手はいつでも初めて会った人』であれば、過去を許して、クリアな、フラットな目線で接することができる気がするから、なんか優しい感じがして好きです。もちろん思い出はちゃんと覚えています。
欲だって「活かしよう」
『欲求』を素直に、否定することなく、満たしてあげることが、幸せへの近道です。
それには、食べたいものをおいしく食べる、快適な睡眠をとる、家族と楽しく過ごす、趣味や娯楽など五官の快楽を大切にする。『おいしい』『楽しい』『心地よい』という反応を、積極的に行おうと考えることです。
ということは、人によっては承認欲(認められたいという願い)も『活かしよう』ということになります。『仕事で評価されたい』『人に感謝されたい』『ほめられたい』という願いがやる気を刺激してくれるなら、その欲求を否定する理由は、少なくともその人にとっては存在しません。
ただしそれには一つ条件がつきます。
というのは、欲求の満足が幸せにつながるのは、本人が『快』を感じられる場合に限ります。逆にもし、欲が膨らみすぎて、『焦り』とか『不安』とか、『結果がでない』『頑張っても認めてもらえない』という『不快』になってしまうのなら、その欲求はいったん手放した方がいいと言えます。
人は誰だって、幸せに生きたいものです。ならば『今、快を感じているか、不快を感じているか』を、よく観察しましょう。『不快』を感じているなら仕切り直しましょう。『快』を感じているのなら、すべて素直に感じ取って、『残さずに全部、食べて』しまいしょう。
他人の目から「自由になる」
他人からの評価を「追いかけない」
『あの人にどう思われているのだろう?』と気になることは、誰にでもあります。ただ他人の目が気になってしまうというのは、本当にしんどいものです。承認欲から逃げよう逃げようと、思えば思うほどに、どんどん承認欲に心が汚染されていきます。サラリーマンであれば、それは給料にも直結しますから、特に上司の評価は気になってしまうものです。まったく気にしないことはそれもそれで問題のように思えます。一生懸命やって、それでも認められないのなら『それは自分にはどうしようもできないこと』なんてことは、もはやわかっているはずなのに、心の奥の方ではまだ承認欲が多くの部分を占領しています。他者の視線など気にせず、あるがままで、ありのままに振る舞えるようになりたいものです。
あるがままの心で生きられぬ弱さを誰かのせいにして過ごしている。知らぬ間に築いていた自分らしさの檻の中でもがいているなら僕だってそうなんだ
だけど…
あるがままの心で生きようと願うから人はまた傷ついてゆく。知らぬ間に築いていた自分らしさの檻の中でもがいているなら、誰だってそう僕だってそうなんだ。
名もなき詩
ちょっと、心の奥深くに進んでみましょう。そしてまず『承認欲』が『ある』ことを認めてしまいましょう。それはあって当たり前です。問題はそこからのプロセスです。
- 『認めてもらいたい』(自分の価値にこだわる)欲求がある
- その欲求に反応して、『どう見られているのだろう』と妄想する
つまりここでも『気になる心理』の正体は、承認欲が作り出す『妄想』です。『職場でどう評価されているのか』『嫌われたのではないだろうか』『今回の件で信用を失ってしまったのではないだろうか』こうした不安はどれも、自分の価値へのこだわりが生み出す『妄想』に過ぎないのです。
他人が認めてくれるかどうかは、他人が決めることであって、自分がコントロールできるものではありません。
妄想という「脳のデタラメ」を真に受けない
『妄想』への対処法として、わかっておくべきことがあります。
一つは『妄想には際限がない』ということ。妄想はどんなに最悪なものでも、簡単に思い浮かんでしまいます。破廉恥(ハレンチ)だったり、残酷だったり、人には決して言えないようなイケナイ妄想でも脳はたやすく作り出してしまいます。真に受けるに値しないものであると知っておきましょう。
もう一つわかっておきたいのは『妄想には確かめるすべはない』ということ。妄想を追いかけて、無理に確かめようと、信じようと思えば、妄想の領域に踏み込んでいくしかなくなり『正しい理解』からは遠のいていくことになります。『妄想を追いかける』ことは必要ありません。
他人の目が気になる人にとって『妄想をやめる』ことが最優先課題です。なぜなら妄想癖こそが『他人の目が気になる』という悩みの元凶だからです。まずは『わたしは今、妄想をしているな』と『気づく』そしてそれは、ただの『妄想』であると理解するところから始めましょう。
『心の癖』や『心のビョーキ』だと割り切って、出てくるたびに『気づく』ことが大切です。
『気づく』ことは『手放す』ことへのきっかけになります。
慈・悲・喜・捨(じ・ひ・き・しゃ)
ブッタが教える、人生の大きな四つの心がけ
慈【慈しみの心】 これは、相手の幸せを願う心です。自分の都合や欲求を通すことではなく、純粋に『家族が、子どもが、身近な人が幸せであるように』と願う心のことです。
悲【悲の心】 これは、相手の苦しみ・悲しみに共感すること。大切な人の『悲』に共感することです。災害にあってしまった人を助けてあげたいと思う心のことです。
喜【喜の心】 これは、相手の喜び・楽しさに共感すること。大切な人が美味しそうにご飯を食べていたり、楽しそうにしている姿を見て幸せを感じる。こういった喜びへの共感が喜の心です。
捨【捨の心】 これは、欲・怒り・妄想を手放す心、捨て置く心、反応しない心です。『中立心』ともいい、四つの中で一番難しく、欲や怒りや妄想という反応に気づいてストップをかける心がけです。相手を許す。過去の怒りを手放す。これ以上苦しまないように、反応しないように努める心がけです。
世間ではこれらをまとめて『愛』と表現します。人間なら誰でも持っているこの四つの心がけは学校でも、社会に出てからも教わる機会はありません。この四つは人間が持っている普遍的な『心の使い方』であるにも関わらず、人は気がつかないまま生きているのです。
その結果、家族には、自分の都合、思惑、わがままをぶつけて、相手が苦しんでいるのに気づかないふり。仕事では、自分の評価、成果、収入ばかり追いかけて、周囲や人や組織の利益は後回し。ひとりになれば、自分のプライド、勝ち負け、優劣をやたら気にする自分がいます。怠惰と快楽に耽りながらも、心はいつも満たされません。過去の失敗もよみがえってきます。将来に不安も感じます。心はどこか渇いている。焦っている。でもどうしたらいいかわからない。こうした苦しい現実を生きています。
四つの心がけを『心の土台』に、『人生のモチベーション』に据えてみると、こうした迷える人生をリセットして、いつでも自分自身に『よし』と言える、納得できる生き方ができるようになります。
人間ですから、弱さはあります。妥協もします。快楽や怠惰に流されることもあります。
それは事実なのだから、否定してもしようがありません。本当の自分とは『頑張れる自分』から『弱い自分』を引いた残りなのです。
その言わば『等身大の自分』は、良いとも悪いとも、本当は判断できません。(するべきではありません)というのは、当たり前のことですが、良くも悪くもそれ以外の自分は存在しないからです。
本人の『妄想』の中にのみ、『もっとできるはずの自分』が存在するのです。でも、そうした妄想に執着しても、自分がみじめになって苦しいだけです。
いつも、『等身大の自分』はあります。
その自分を、ありのままの、否定しようのない自分として受け容れることが正解なのです。
人生は、常にそこが『スタートライン』です。
もしまだ自分に納得できないなら、これから自分を高め、成長させていきましょう。
足元を見てできることを毎日、積み重ねましょう。
努力する自分自身の道のりを、謙虚に、楽しみながら生きていきましょう。
人生のゴールは『最高の納得』
最高の納得 = 苦悩から自由になった心境
人は常に何かを追いかけます。手に入らない現実に苦しみます。失われる現実に悩みます。そうした『現実』の中にあって『現実』にのまれない心を持とう。
苦悩を越えた『納得の境地』にたどり着こう、そこに『きっとたどり着ける』と考えましょう。
『納得』というのは主観的なものです。私たちが、自分に『よし』と思えれば、その思い一つで達成できます。何歳になっても、どんな状況にあっても、今すぐにでも、得ることは可能です。言うならば人生のゴールは既に手が届く『すぐそこ』に用意されていて、それに手を伸ばすか伸ばさないか、選ぶか選ばないか、納得するかしないかをあなたが決めているのです。
ままならない現実、わかり合えない人間は、これからも現れるでしょう。しかし、そういうときこそ、いたずらに反応せず、ぐっと目を閉じて、心を見つめて『正しい心がけ』に戻りましょう。そうすれば心に必ず『納得』が残ります。
あなたが悩みを抱えたときに考えるべきは、正しい生き方、正しい『心の使い方』に帰ることです。過去や他人を恨むことではなく、これから先を悪く想像することでもない。自分を責めることでもありません。
『この生き方に間違いはない。いざというときは、この心がけに帰ろう』
そう思えることが、『最高の答え』です。これ以上に気高い生き方は存在しません。
『戻るべき心の場所』『心のよりどころ』『進むべき道』さえ見つかったのなら、あとは今日をよく生きることだけを大切にしていれば、
必ず人生のゴール『最高の納得』へとたどり着けることでしょう。
『この道を歩んでいけばいい。きっと納得にたどり着ける』
最後まで読んでいただきありがとうございました。