【走ることについて語るときに僕の語ること】選択事項(オプショナル)としての苦しみ




こんにちは!keeです。村上春樹さんがランナーなのは有名は話です。そんな村上春樹さんがすべてのランナーに捧げた著書『走ることについて語るときに僕の語ること』について好きな部分・マラソンに関わる部分のみ、かいつまんで自分のことのように語ってみようと思います。

Pain is inevitable.suffering is optional.

『痛みは避けがたいが、苦しみはオプショナル(こちら次第)』

たとえば走っていて『ああ、きつい、もう駄目だ』と思ったとして、『きつい』というのは避けようのない事実だが、『もう駄目』かどうかはあくまで本人の裁量に委ねられていることである。この言葉は、マラソンという競技のいちばん大事な部分を簡潔に要約していると思う

継続すること

リズムを断ち切らないこと。長期的な作業にとってはそれが重要だ。いったんリズムが設定されてしまえば、あとはなんとでもなる。しかし弾み車が一定の速度で確実に回り始めるまでは、継続についてどんなに気をつかっても気をつかいすぎることはない。

走り続けることによって、僕の身体と精神はおおむね良き方向に強化され形成されていった。

フル・マラソンを走ってみればわかるが、レースでの特定の誰かに勝っても負けても、そんなことはランナーにとってとくに問題にならない。

走り終えて自分に誇り(あるいはそれに似たもの)が持てるかどうか、それが長距離ランナーにとっての大事な基準になる。

昨日の自分をわずかにでも乗り越えていくこと、それがより重要なのだ。長距離走において勝つべき相手がいるとすれば、それは過去の自分自身なのだから。

僕はどちらかというと一人でいることを好む性格である。いや、もう少し正確に表現するなら、一人でいることをそれほど苦痛としない性格である。

一日に一時間ばかり走り、そこに自分だけの沈黙の時間を確保することは、僕の精神衛生にとって重要な意味を持つ作業になった。少なくとも走っているあいだは誰とも話さなくてもいいし、誰の話を聞かなくていい。ただまわりの風景を眺め、自分自身を見つめていればいいのだ。それはなにものにも換えがたい貴重なひとときだった。

僕は走りながら、ただ走っている。僕は原則的には空白の中を走っている。逆の言い方をすれば、空白を獲得するために走っている、ということかもしれない。

走っているときに頭に浮かぶ考えは、空の雲に似ている。いろんなかたちの、いろんな大きさの雲。それらはやってきて、過ぎ去っていく。でも空はあくまで空のままだ。雲はただの過客(ゲスト)に過ぎない。それは通り過ぎて消えていくものだ。そして空だけが残る。

空とは、存在すると同時に存在しないものだ。実体であると同時に実体ではないものだ。

僕が僕であって、誰か別の人間ではないことは、僕にとってのひとつの重要な資産なのだ。心に受ける生傷は、そのような人間の自立性が世界に向かって支払わなくてはならない当然の代価である。

誰かに故のない(と少なくとも僕には思える)非難を受けたとき、あるいは当然受け入れてもらえると期待していた誰かに受け入れてもらえなかったようなとき、僕はいつもより少しだけ長い距離を走ることにしている。いつもより長い距離を走ることによって、そのぶん自分を肉体的に消費させる。

そして自分が能力に限りのある、弱い人間だということをあらためて認識する。いちばん底の部分でフィジカルに認識する。そしていつもより長い距離を走ったぶん、結果的には自分の肉体を、ほんのわずかではあるけれど強化したことになる。

腹が立ったらそのぶん自分にあたればいい。悔しい思いをしたらそのぶん自分を磨けばいい。

学校で僕らが学ぶもっとも重要なことは、『もっとも重要なことは学校では学べない』という真理である。

本番レースの2ヶ月前までは『とにかく距離を積み上げていこう』ということで、むずかしいことは考えず、徐々にペースを上げながら日々ひたすらに走ってきた。総合的な体力の土台造りをしてきたわけだ。スタミナをつけ、各部の筋力をアップし、肉体的にも心理的にもはずみをつけ、志気を高めていく。そこでの重要なタスクは、『これくらい走るのが当たり前のことなんだよ』と身体に申し渡すことだ。

身体は簡単に言うことを聞いてくれない。身体というのはきわめて実務的なシステムなのだ。時間をかけて断続的に具体的に苦痛を与えることによって、身体は初めてそのメッセージを認識し理解する。その結果、与えられた運動量を進んで(とは言えないかもしれないが)受容するようになる。

本番レースを2ヶ月後に控えて、トレーニングは調整期に入っていく。『量の練習』から『質の練習』へと転換をはかるわけだ。そしてレース1ヶ月前くらいに疲労のピークを迎えるべく設定する。大事な時期だ。身体と注意深く会話しながら、ものごとを前に進めていかなくてはならない。

人は誰であれ、永遠に勝ち続けるわけにはいかない。人生というハイウェイでは、追い越し車線だけをひたすら走り続けることはできない。

しかしそれとは別に、同じ失敗を何度も繰り返すことはしたくない。ひとつの失敗から何かを学びとって、次の機会にその教訓を活かしたい。少なくともそういう生き方を続けることが能力的に許されるあいだは。

いずれにせよ、ここまで休むことなく走り続けてきてよかったなと思う。なぜなら、僕は自分が今書いている小説が、自分でも好きだからだ。この次、自分の内から出てくる小説がどんなものになるのか、それが楽しみだからだ。一人の不完全な人間として、限界を抱えた一人の作家として、矛盾だらけのぱっとしない人生の道を辿りながら、それでも未だにそういう気持ちを抱くことができるというのは、やはりひとつの達成ではないだろうか。いささか大げさかもしれないけれど、『奇跡』と言ってもいいような気さえする。そしてもし日々走ることが、そのような達成を多少なりとも補助してくれたのだとしたら、僕は走ることに対して深く感謝しなくてはならないだろう。

世間にはときどき、日々走っている人に向かって『そこまでして長生きをしたいかね』と嘲笑的に言う人がいる。でも思うのだけれど、長生きをしたいと思って走っている人は、実際にはそれほどいないのではないか。むしろ『たとえ長く生きなくてもいいから、少なくとも生きているうちは十全な人生を送りたい』と思って走っている人の方が数としてはずっと多いのではないかという気がする。同じ十年でも、ぼんやりと生きる十年よりは、しっかりと目的をもって、生き生きと生きる十年の方が当然のことながら遥かに好ましいし、走ることは確実にそれを助けてくれると僕は考えている。与えられた個々人の限界の中で、少しでも有効に自分を燃焼させていくこと、それがランニングというものの本質だし、それはまた生きることのメタファーでもあるのだ。このような意見には、おそらく多くのランナーが賛同してくれるはずだ。

僕は人間ではない。一個の純粋な機械だ。機械だから、何を感じる必要もない。ひたすら前に進むだけだ』

その言葉を頭の中でマントラのように、何度も何度も繰り返した。文字通り『機械的』に反復する。そして自分の感知する世界をできるだけ狭く限定しようと努める。僕が目にしているのはせいぜい3メートルほど先の地面で、それより先のことはわからない。僕のとりあえずの世界は、ここから3メートル先で完結している。その先のことを考える必要はない。

空も、風も、草も、その草を食べる牛たちも、見物人も、声援も、湖も、小説も、真実も、過去も、記憶も、僕にとってはもうなんの関係もないものごとなのだ。ここから3メートル先の地点まで足を運ぶ…それだけが僕という人間の、いや違う、僕という機械のささやかな存在意義なのだ。

こんなに長い時間走り続けているのだから、肉体的に苦しくないわけがない。でもそのころには、疲れているということは、僕にとってそれほど重大な問題ではなくなってしまっていた。

疲弊していることが、いわば『常態』として僕の中に自然に受け入れられていった、ということかもしれない。一時は沸き立っていた筋肉の革命議会も、今ある状態についていちいち苦情を申し立てることをあきらめたようだった。

タイムは問題ではない。今となっては、どれだけ努力したところで、おそらく昔と同じような走り方はできないだろう。その事実を進んで受け入れようと思う。あまり愉快なこととは言いがたいが、それが年を取るということなのだ。僕に役目があるのと同じくらい、時間にも役目がある。そして時間は僕なんかよりはずっと忠実に、ずっと的確に、その職務をこなしている。なにしろ時間は、時間というものが発生したときから、いっときも休むことなく前に進み続けてきたのだから。そして若死をまぬがれた人間には、その特典として確実に老いていくというありがたい権利が与えられる。肉体の減衰という栄誉が待っている。その事実を受容し、それに慣れなくてはならない。

大事なのは時間と競争することではない。どれくらいの充足感を持って42キロを走り終えられるか、どれくらい自分自身を楽しむことができるか、おそらくそれが、これから先より大きな意味を持ってくることになるだろう。数字に表れないものを僕は愉しみ、評価していくことになるだろう。そしてこれまでとは少し違った成り立ちの誇りを模索していくことになるだろう。

苦しいからこそ、その苦しさを通過していくことをあえて求めるからこそ、自分が生きているというたしかな実感を、少なくともその一端を、僕らはその過程に見いだすことができるのだ。生きることのクオリティーは、成績や数字や順位といった固定的なものにではなく、行為そのものの中に流動的に内包されているのだという認識にたどり着くこともできる。

次のレースに向けて、それぞれの場所でこれまでどおり、黙々と練習を続けていく。そんな人生がはたから見て…あるいはずっと高いところから見下ろして…たいした意味も持たない、はかなく無益なものとして、あるいはひどく効率の悪いものと映ったとしても、それはそれで仕方がないじゃないかと僕は考える。たとえそれが実際、底に小さな穴があいた古鍋に水を注いでいるようなむなしい所業に過ぎなかったとしても、少なくとも努力したという事実は残る。効能はあろうがなかろうが、かっこよかろうがみっともなかろうが、結局のところ、僕らにとってもっとも大事なものごとは、ほとんどの場合、目には見えない(しかし心では感じられる)何かなのだ。

そして本当に価値のあるものごとは往々にして、効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ。たとえむなしい行為であったとしても、それは決して愚かしい行為ではないはずだ。僕はそう考える。実感として、そして経験則として。

一歩一歩のストライドに意識を集中する。しかしそうしながら同時に、なるべく長いレンジでものを考え、なるべく遠くの風景を見るように心がける。なんといっても僕は長距離ランナーなのだ。

個々のタイムも順位も、見かけも、人がどのように評価するかも、すべてはあくまで副次的なことでしかない。僕のようなランナーにとってまず重要なことは、ひとつひとつのゴールを自分の脚で確実に走り抜けることだ。尽くすべき力は尽くした、耐えるべきは耐えたと、自分なりに納得することである。そこにある失敗や喜びから、具体的な…どんなに些細なことでもいいから、なるたけ具体的な…教訓を学びとっていくことである。そして時間をかけ歳月をかけ、そのようなレースをひとつひとつ積み上げていって、最終的にどこか得心のいく場所に到達することである。あるいは、たとえわずかでもそれらしき場所に近接することだ。

最後に、これまで世界中の路上ですれ違い、レースの中で抜いたり抜かれたりしてきたすべてのランナーに、この本を捧げたい。

もしあなた方がいなかったら、僕もたぶんこんなに走り続けられなかったはずだ。




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kee
フルマラソン3:27:43!! ファイナンシャルプランナー&JADPメンタル心理カウンセラー&上級心理カウンセラー! 普段は食品工場で仕事をしています。ランニング大好き、料理大好き、サッカー大好き、キャンプ大好き、お酒大好き、釣り大好き、激辛大好き、読書大好き、書ききれないほどの大好きに囲まれて毎日幸せを実感しています。夢はホノルルマラソンに出ること。 座右の銘『明日死ぬかのように生きよ、永遠に生きるかのように学べ』 このブログは忘れやすい私の備忘録、私の脳の第2領域です。