『嫌われる勇気』人は今、この瞬間から幸せになれる。




こんにちは!keeです。今回は紹介する本は『嫌われる勇気』です。

『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』は、岸見一郎と古賀史健の共著による、アルフレッド・アドラーの「アドラー心理学」を解説した、国内累計208万部、世界累計485万部の発行部数を誇る大ヒットを記録している書籍です。『嫌われる勇気』として2017年にはテレビドラマ化されていたんですね。まったく知りませんでした。

この本は哲人と青年の対話形式で書かれていて、あまり本を読まない人にとっても、とても読みやすいと思います。読んでいて次々に湧き上がってくる感情を青年が的確に代弁して、哲人にぶつけてくれます。しかし読み進めるうちに、次第に、哲人の言葉に共感している自分に気が付きます。いつのまにか、自分の代弁者であった青年が、どうしようもないわからずやのように思えてきます。そしてそれはあなた自身がアドラー心理学の考え方を理解しはじめた瞬間と言って差し支えないと思います。

この本からのメッセージを受け取ることができれば、あなたはその瞬間から、きっと今よりも幸せになれるはずです。

では、始めましょう!!

かつて1000年の都と謳われた古都のはずれに、世界はどこまでもシンプルであり、人は今日からでも幸せになれる、と説く哲学者が住んでいた。

トラウマは、存在しない

心に負った傷【トラウマ】が現在の不幸を引き起こしている(過去が原因で今がある)と考えるフロイトの『原因論』を全否定する中で、アドラーはこう語ります。

「いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショック、いわゆる【トラウマ】に苦しむのではなく、経験の中から目的にかなうものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定するのである」

人の行動は原因によるものではなく、目的によるものである『目的論』をアドラーは提唱しています。

例えば、会社で上司がミスをした部下に対して声を荒げて怒っていたとします。でも同じミスをしても怒らない上司もいます。また同じミスをしても怒られない部下もいるでしょう。ということは、その部下がした『ミス』が、怒る原因ではなく、この場合では、上司がその部下に対して自分の目的を達成するために怒りの感情を利用している。要するに、怒りとは出し入れ可能な『道具』であるとアドラーは主張します。

ではこの場合での上司の目的とはなんでしょうか?

客観的にみると『威嚇』をすることで、自分の権力を誇示したかったり、部下が自分に歯向かわないようにしたかったり、上下関係を見せつけたかったり、怒りの感情を使って結局は自分の目的を果たそうとしていることがわかると思います。これが『目的論』です。

そしてこの『目的論』によって伝えられているのは、『人は変われる』ということです。上司がミスはもう起きてしまったのだから、同じことが繰り返されなければいいという目的を持てたとするなら、怒った上司は怒らなかった後者の上司になることができるということです。

『あらゆる結果の前には、原因がある』(原因論)

という考え方では、現在のわたし(結果)は、過去の出来事(原因)によって作られているという思考になります。私たちは過去を変えることはできませんから、人間は変われないということになってしまいます。

人は変われないと考える人は、原因を『いいわけ』にして『変わらない』という選択を自分でしているのであり、いろいろ不満はあったとしても『このままの私』でいるほうが楽で安心なのです。

アドラー心理学は勇気の心理学です。もしあなたが変わりたいのに変われないとしたら、過去(トラウマ)にとらわれないで、目的論の立場に立って自らの人生を自分で選択して生きていく、

幸せになる勇気』が必要です。

『これまでの人生になにがあったとしても、今後の人生をどう生きるかについてなんの影響もない』自分の人生を決めるのは、『いま、ここ』を生きているあなたであるということです。

すべての悩みは対人関係

これはアドラー心理学の根底に流れる概念で、もしこの世界から対人関係がなくなってしまえば、それこそ宇宙のなかにただひとりで、他者がいなくなってしまえば、あらゆる悩みは消え去ってしまうでしょう。私たちは孤独を感じるのにも、他者を必要とします。

まず人は無力な存在としてこの世に生を受けます。そしてその無力な状態から脱したいと願う普遍的な欲求を持っています。たとえば、よちよち歩きの子どもが二本足で立つようになったり、言葉を覚え、周囲の人々と自由に意思の疎通ができるようになる。私たちは皆、無力な状態から脱したい、もっと向上したいという欲求を持って生まれるのです。これをアドラーは『優越性の追求』と呼びます。

これと対をなすのが『劣等感』です。理想に到達できていない自分に対し、まるで劣っているのかのような感覚を抱く。志の高い料理人などは、「まだまだ未熟」「もっと極めなければ」といった劣等感を抱くでしょう。劣等感も、使い方さえ間違えなければ、努力や成長の促進剤となりますが、自らの劣等感をある種の言い訳に使いはじめてしまうとそれは劣等感ではなく、劣等コンプレックスというまったくの別物なってしまいます。「わたしは学歴が低いから、成功できない」このように「Aであるから、Bできない」という論理を振りかざすのは、もはや劣等感の範疇には収まりません。劣等コンプレックスです。

人生とは他者との競争ではない

『優越性の追求』とは、自らの足を一歩前に踏み出す意思であって、他者よりも上を目指さんとする『競争』の意思ではありません。誰とも競争することなく、ただ前を向いて歩いていけばいいのです。

健全な劣等感とは、他者との比較の中で生まれるのではなく、『理想の自分』との比較から生まれるものです。

対人関係の軸に『競争』があると、人は対人関係の悩みから逃れられず、不幸から逃れることができません。他者全般のことを、ひいては世界のことを『敵』だと見なすようになってしまいます。たとえ敗者にならずとも、勝ち続けていようとも、競争のなかに身を置いている人は心の休まる暇がありません。敗者になりたくない。そして敗者にならないためには、常に勝ち続けなければならない。他者を信じることができないので、社会的成功をおさめながらも、他者の幸せをまるで『わたしの負け』であるかのようにとらえてしまい、心から祝福することができず、自らの幸せも実感できない人が多いのは、『競争』の中に、生きているからなのです。

しかし、ひとたび『競争』の図式から解放されれば、誰かに勝つ必要がなくなり『負けるかもしれない』という恐怖からも解放されます。他者の幸せを心から祝福できるようになるし、他者の幸せのために積極的に貢献ができるようになるでしょう。その人が困難に陥ったとき、いつでも援助しようと思える他者、それはあなたにとって仲間と呼ぶべき存在になります。

人々はわたしの仲間なのだ』と実感できれば、世界の見え方はまったく違ったものになります。

他者の課題を切り捨てる

アドラー心理学では、他者から承認を求めることを否定します。

「承認欲求を否定する?」←この本の中核を担う言葉です。

いったいどうして人は他者からの承認を求めるのか?

それは他者から承認されてこそ、私たちは自分の存在価値を実感することができるし、他者からの承認を通じて、劣等感を払拭することができたり、自分に自信を持つことができるからです。

しかし、承認欲求の危うさはそこにあります。それには賞罰教育が影響しています。

賞罰教育とは、適切な行動をとったら、ほめてもらえる。不適切な行動をとったら、罰せられる。というもので、その先には『ほめてくれる人がいなければ、適切な行動をしない』『罰する人がいなければ、不適切な行動もとる』という誤ったライフスタイルが生まれてしまいます。

先ほどの話を例にあげると、承認されなければ自分の存在価値を実感できないし、劣等感を払拭できないし、自分にも自信が持てないということになってしまします。

私たちは誰かの期待を満たすために生きているのではありません。

他者の期待など、満たす必要なんてないのです。

『自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば、いったい誰が自分のために生きてくれるだろうか』

ユダヤ教の教え

そして他者もまたあなたの期待を満たすために生きているのではありません。

私たちは『これは、誰の課題なのか?』という視点から、自分の課題と他者の課題とを分離していく必要があります。この考え方を『課題の分離』といいます。

You can take a horse to the water, but you can’t make him drink.

『馬を水辺に連れていくことはできても、水を飲ませることはできない』

イギリスの伝統的なことわざで、水辺にいったとしても、水を飲むのか飲まないのかは馬が決めることであって飲みたくないのに飲ませることはできない。本人にその気がないのに、周囲の人が気を揉んだり強制しても無駄であるということの例えです。

たとえ我が子であっても、親の期待を満たすために生きているのではないと知るべきです。世の親たちは、『あなたのためを思って』という言葉を使います。しかし、親たちは明らかに自分の目的【世間体・見栄・支配欲】を満たすために動いています。つまり『あなたのため』ではなく『わたしのため』であり、その欺瞞を察知するからこそ、子どもは反発するのです。

欺瞞(ぎまん)… 人をあざむく・だます・うそをつくこと。

親として必要なことは、『見守ること』です。それが本人の課題であることを伝え、それをしたいと思ったときにはいつでも援助をする用意があることを伝えておくことです。

信じる』という行為もまた『課題の分離』なのです。

あなたの人生において、あなたがするべきは『自分の信じる最善の道を選ぶこと』です。

そしてその選択について他者がどのような評価を下すのか。いいと思うのか、それとも悪いと思うのか。好かれるのか、または嫌われるのか。でもそれは、他者の課題であって、あなたにはどうすることもできません。自分の人生を貫けば誰からも嫌われないことなんてことは不可能なのです。

『嫌われる勇気』とは、自ら嫌われるような行動や言動をすることではなく、自分勝手に生きろと言っているのでもなく、ベストを尽くして嫌われるとしたら、それは仕方がないという覚悟や勇気を持つことが大切だということ言っています。そして『課題の分離』とは、対人関係において『不干渉』になることではなく、本を読むときに顔を近づけすぎると何も見えないように、または密着してしまうと向かい合って話すこともできないように、良好な対人関係を結ぶにはある程度の距離が必要だということです。

人間にとっての幸福とはなにか。

人はいま、この瞬間から幸せになることができる。

他者とは争うべき『敵』ではなく、一緒に戦う『仲間』だと見なし、そこに『自分の居場所がある』と感じられる『共同体感覚』が必要です。いちばん大切なのは、他者を『評価』しないということです。そして他者から『よい』と評価されるのではなく、自らの主観によって、私は他者に貢献できているという『貢献感』を感じることで、人は自らの価値を実感することができます。

共同体感覚』を感じるために必要になるのが『自己受容』『他者信頼』『他者貢献』の3つです。

自己受容』とは、テストで60点という点数を取ったとして、『今回は運が悪かっただけ、本当の自分は100点なんだ』と言い聞かせる『自己肯定』とは違い、60点の自分をそのまま60点として受け入れ『100点に近づくのはどうしたらいいか』を考えることです。課題の分離もそうですが『変えられるもの』と『変えられないもの』を見極めて『変えられるもの』に注目することです。

他者信頼』については、『信じる』という言葉を『信用』と『信頼』に分けて考えます。『信用』とは、条件付きのことで、英語でいうところのクレジットです。なにかしらの担保があって成立する銀行の融資などがこれにあたります。一方『信頼』とは、他者を信じるにあたって、いっさいの条件をつけないことです。裏切られてもなお、無条件に信じることです。まだ起きてもいない『裏切られたとき』に受ける傷の痛みばかりに注目して信頼することをおそれていたら、結局は誰とも深い関係を築くことができないということです。

最後のキーワード『他者貢献』とは、その名の通り他者に貢献することです。それにより『わたし』の価値を実感するためになされるものです。たとえ誰かに嫌われようとも、他者に貢献するのだという『導きの星』さえ見失わなければ、人は迷うことはありません。自らの上空に他者貢献をという『導きの星』を掲げていれば、常に幸福とともにあり、仲間とともにある!すなわちそれは、

『幸福とは、貢献感であるということです。

この3つはひとつとして欠かすことはできない円環構造です。ありのままの自分を受け入れる『自己受容』するからこそ、裏切りを恐れることなく『他者信頼』することができる、そして無条件で信頼を寄せて、人々は自分の仲間だと思えているからこそ、『他者貢献』をすることができ、さらにはそこで『貢献感』を実感することで、またありのままの自分を受け入れる『自己受容』ができる・・・。

青年はゆっくりと靴紐を結び、哲人の家を出た。青年は大きく息を吸い込むとたしかな声でつぶやいた。

『世界はシンプルであり、人生もまた同じである』

最後まで読んでいただきありがとうございました。




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kee
フルマラソン3:27:43!! ファイナンシャルプランナー&JADPメンタル心理カウンセラー&上級心理カウンセラー! 普段は食品工場で仕事をしています。ランニング大好き、料理大好き、サッカー大好き、キャンプ大好き、お酒大好き、釣り大好き、激辛大好き、読書大好き、書ききれないほどの大好きに囲まれて毎日幸せを実感しています。夢はホノルルマラソンに出ること。 座右の銘『明日死ぬかのように生きよ、永遠に生きるかのように学べ』 このブログは忘れやすい私の備忘録、私の脳の第2領域です。